2011年12月16日金曜日

国際社会で強まる「保護する責任」 議員総会設立も急務と犬塚氏

10月に米ワシントンで開かれた世界連邦運動の国際理事会に参加した犬塚直史国際委員長が12月8日、世界連邦国会委員会で講演し、内戦などで国民の生命が危険に瀕している場合、国際社会が積極的に関与すべきだという意識が強まり、国連で保護する責任の役割が年々大きくなっていると報告した。またEU議会にならって国連でも国益を乗り越えた議員総会の設立が急務であるとの認識を示した。以下、講演の要旨である。

最近、注目されているのが「保護する責任」。従来、国際社会は「内政不干渉」が原則だったが、ルアンダでの虐殺を契機に意識が大きく変化した。政府が国民を保護する能力がなかったり、保護する意思がなかったりする場合、国際社会が代わりに責任を負うというものである。2005年の国連総会で全会一致で採択され、今年のリビア内紛では国連が保護する責任を発動した。世界連邦ができた場合は、この保護責任原則に基づいて動くはずである。

2009年からWFMが保護する責任の事務局となっていて、2011年11月だけでも世界各地で10回もセミナーが開催されネットでも報告されている。日本に世界で起きている動きを伝えるため、日本語サイトを立ち上げたい。

もう一つ注目してほしいのが国連議員総会(UNPA)の考えだ。現在の国連は政府代表によって成り立っているが、EU議会にならって世界や地球全体のことを考えるために、国益代表でない代表を選出しようというのである。

すでに国連憲章22条で補助機関を設ける規定があるので、これを用いれば国連憲章の改正をしなくても議員総会は設置できると考えられている。国連議員総会の設置に対して反対しているのが列国議会同盟(IPU)であるが、列国議会同盟を議員総会に発展させるということを提案していっても良いのではないかと思う。

世界連邦運動ニューヨーク本部では約4億ドルの寄附を集めたが、74%は国際刑事裁判所問題NGO連合、21%は保護する責任の国際連合へのもので、世界連邦運動そのものへの寄附は4%に過ぎない。本部の運動は世界連邦そのものを直接前面に押し出すのではなく、国際刑事裁判所、保護する責任などのプロジェクトで進めて成功している。

1998年に国際刑事裁判所のNGO連合を立ち上げた時は17の団体しか加盟していなかったが、現在はなんと2500ものNGOが加盟している。世界連邦運動のウィリアム・ペイス氏がその代表を務めているが、世界連邦であるということを前面に出してはいないので、他のNGOは中心が世界連邦とは知らないであろう。

2003年国際刑事裁判所が実際に設立されたのは、世界連邦運動の大きな成果である。スーダンでは元大統領が責任追及されることまで起きている。「侵略の罪」について個人責任を追及するようになったのも大きな前進である。今後は核兵器の使用についても対象とすることを求めていくべきである。(伴 武澄)

2011年11月25日金曜日

金沢で思い出した尾崎行雄の「非国民たれ」

金沢連合会のお誘いがあって、「秋の講演会」で講師をつとめることになった。高知から金沢までJRで旅した。太平洋から瀬戸内海、琵琶湖(淡の海)、そして日本海と四つの海を車窓に眺めた。なかなかない旅である。

金沢にはふるさと偉人館があり、講演の朝訪ねた。八田与一の展示を確認するためだったのだが、金沢には明治以降、多くの偉人を輩出していることをあらためて知らされた。高知で「龍馬。龍馬」と騒いでいる場合でないと思わされた。

高峰譲吉はアドレナリンなどの発見で世界的な科学者だ。ノーベル医学賞をとってもおかしくない業績を残した。その展示で見つけたのは「ワシントンのポトマック河のサクラ植樹に資金を提供したのは高峰譲吉である」との説明であった。

あのサクラは 世界連邦運動協会の初代会長の尾崎行雄が東京市長時代にワシントン市との友好を願って寄贈したものだと思っていた。当然、資金は東京市が負担したのだと思っていたらそうではなかった。高峰譲吉は当時、自分の発明を企業化する、いまでいうところのベンチャー企業家だった。

世界連邦運動との面白いつながりを発見した思いだった。

その尾崎行雄は生前、とんでもないことを言っている。「非国民たれ」というのだ。国があるから争う、というより、国家は争う目的でつくられたという方が正しいかもしれない。

昔の人はすごいことを平然と言ってのける。尾崎によれば、有為の武士たちが脱藩して近代日本をつくったのだから、同じことを地球規模でやればいいということになる。その有為の武士たちによる脱藩という行為こそが「非国民」なのだ。

ひょっとしたら「歴史」もまた「国威」とつながる可能性を秘めている。「日本外史」が書かれたのは、幕末に外敵が現れたからで、敵が出現しなければ、武士たちが「日本」をあれほど意識することはなかったはずだ。

2011年10月23日日曜日

松山市で四国ブロック大会を開催

市民参画まちづくり課の中川眞人課長
第38回世界連邦四国協議会総会と2011年世界連邦運動協会四国ブロック大会が10月22日、松山市の松山総合コミュニティーセンターで開催され、四国4県から約40人が集まった。

大会宣言の中で2005年、衆議院が「世界連邦実現への道の探求に最大限の努力をすべし」と決議し、世界平和構築のためには、世界連邦の実現が重要であることを世界に向けて発信したが、それからの6年、政府はどのような顕著な対応をしてきていないことを強調。「四国四県が力を合わせ、全国各地の志ある方々と共に力を尽して、衆参両院による「世界連邦日本国会委員会」のさらなる強化を働きかけるべきだとの提言を加えたい」と宣言した。

広島修道大学教授の城忠彰教授が、「欧州統合からみた世界連邦の近未来」と題して基調講演し、次のように語った。詳細は→

広島修道大学の城忠彰教授
「 世界連邦は経済交流つまり自由貿易が深化して経済面で国境がなくなるのが第一段階。もう一つは地域的統合が進む。北米のNAFTAはカナダ、アメリカ、メキシコの関税はない。南米のメルスコールがあり、南北アメリカを一緒にしようという構想も進行中である。そして環太平洋がある。そのほか軍事面をどうするか信頼関係をどうするか、他の人権などの課題をどうするか。そういうことを考えると東アジア共同体の未来はとても難しいと思う。昨年、欧州連合本部のあるブリュッセルを訪ねた。27カ国の旗があり、その旗の下にすべての加盟国の国名が書いてある。英語ではなく、それぞれの言語で表記されている。よく見るとすべてアルファベットだ。キリスト教に加えてアルファベットという共通基盤がある。アジアはどうだろうか。
新ブロック会長に就任した伴武澄氏
EUをモデルにして世界連邦についていろいろ話をした。実際、国連の議員を選んで総会に出すとか、連帯税をつくるとかいろいろな試みがあるがまだ流動的だ。私たちの運動が近い将来どうなるか。また世界はどう動いていくかについては未知数のことが多いが、冒頭に話したようにわれわれは世界連邦以外に世界の問題を解決する根本的なシステムを持っていない。

また、四国ブロック協議会の中山淳会長が退任し、公認に伴武澄高知支部長が就任した。伴新会長は「世界連邦の実現には時間がかかる。目標は目標として、今後は道州制や原発問題などにも議論広げていきたい。四国には中心都市がない。このことが逆に道州制導入をやりやすくさせるかもしれない」などとあいさつした。次回の開催地は高松市。

2011年9月23日金曜日

10月22日に松山で四国ブロック大会

 四国4県の世界連邦支部は10月22日、松山市総合コミュニティーセンターで四国ブロック大会を開催する。第38回目の開催となる。
大会では記念講演として、広島修道大学教授の城忠章氏が「欧州統合からにた世界連邦の近未来」と題して記念講演する。
四国ブロックは昭和38年に高松市でブロック大会を皮切りに4県持ち回りで大会を開催してきた。かつて世界連邦運動が盛んだったことには県庁所在地以外にも、南国市、琴平町、土佐清水市、大洲市、新居浜市などでもブロック大会を開催するなどユニークな活動を繰り広げてきた。
四国地区の世界連邦宣言自治体は香川県、愛媛県、高知県のほか、27市町で行われている。
また支部は徳島、香川、高知のほか、愛媛では松山、新居浜、大洲に支部が置かれている。
現在四国ブロックの代表は松山市の中山淳氏が務めている。

筋金入りの世界連邦論者だった亡夫 山口末子【運動を支えた人々01】

高知支部には97歳の会員が2人いる。奥山さんと山口末子さん。末子さんは日本大会の常連でもあるので多くの会員はご存知であろうと思う。先日、秋の四国ブロック大会の準備会のため末子さんと松山市までご一緒した。車中で世界連邦との出会いについて話を聞いた。


世界連邦運動はもともと亡夫が高知で旗を振っていたことから「いつから」とはいえないという。ご主人は小笠原論文といった。奉天市に奉職中に終戦を迎えシベリア抑留となった。運よく1948年に高知に帰ることができた。シベリア抑留の体験から戦争絶滅の運動を開始した。世界連邦運動は第一回会合から参加した筋金入りの会員である。

 高知支部は、高知の良心の一人ともいわれる中澤寅吉氏が創設した。中澤薬業という医薬品の卸業を四国最大の企業に育てる一方、敬虔なキリスト教徒として知られた。世界連邦運動の立役者、賀川豊彦が高知に来た時は必ず、中澤氏の家に泊まったという。小笠原氏は当然、高知支部に合流し長年、事務局長として支部運営を支えた。
 全国どこの支部で同じだったと思うが、地元政財界がこぞって世界連邦運動を支援した時代があった。高知支部の場合、高知新聞社長や高知大学学長までが参画する国民的運動だったのである。

小笠原氏の面白いところは、末子さんと結婚しても姓を変えなかったことである。夫婦別姓で何が悪いと考える人物だった。しかし子供が大きくなって「どうして両親の姓が違うのか」を悩み始めると、「そんなら今日から山口を名乗る」と潔く妻の姓を名乗ることになった。それから山口論文となった。

末子さんの家業は万年筆屋「白亜堂」。「家業はぜんぜん手伝いません。お客が店に来ても口もきかんのです」「世界を廃藩置県せにゃならんというのが口癖でした。全国の同志と交流する日々で何冊も世界連邦に関する本を執筆しました」。

有名なのは『次の時代の行動原理』なのだそうだが、近いうちにお借りすることになっている。(伴 武澄)

志は大きく、敗北主義はだめ、転換期にジョージとトシキ関係

Q:このたびは桐花大綬章の受章おめでとうございます。海部さんは1989年から約2年半にわたり首相をつとめられました。当時は国際政治の大転換期でした。ベルリンの壁の崩壊があり、東西冷戦構造が消滅し、湾岸戦争も起き、日本の自衛隊のあり方も問われました。経済面では日米構造協議というかつてない困難な問題に直面しましたが、ブッシュ大統領とはジョージ、トシキと呼び合う信頼関係をつくりました。



海部会長:中曽根首相とレーガン大統領に続いてジョージとトシキの関係をつくれたのは大きかった。ジョージは気配りの人で正月の朝、まだ官邸に誰もいない時間帯に国際電話がかかり、直接出ると交換手が「プレジデント・イズ・オン・ザ・ライン」というのです。続いてジョージが「ハッピー・ニューイヤー」と電話に出たのでびっくり。ワシントンではまだ大晦日なんですよね。日本の時間に合わせてわざわざ電話してくれたのです。日米構造協議の最中で、こういう人のためならばと思わせるものがありました。
Q 海部さんといえば、90年のヒューストン・サミットでサッチャー首相やマルルーニ首相らを大笑わせたエピソードがあります。あの時、いったい何と言って笑わせたのですか。
海部会長:カナダのマルルーニ首相が「テキサスは暑すぎる」と繰り返していて「もう倒れそうだ」とこっちに寄りかかってきたのです。とっさに「アイ・アム・ノット・ストロング・イナフ」「倒れるんなら向こうに鉄の女がいるから、向こうに倒れろ」って言ったんです。そしたらブッシュ大統領らが大笑いになりました。その写真が新聞に大きく掲載されて、朝日新聞は「710日は海部記念日」と書いてくれました。
Q:ところで高度成長期に日本の役割を考えられ、現在の青年海外協力隊を創設されたのは海部さんとうかがっていますが。
海部会長:そうなんです。1964年でしたか。アメリカのケネディ大統領が平和部隊をつくって青年を海外に派遣しました。それにならって日本に青年海外奉仕隊をつくりました。小渕恵三さん、西岡武夫さん、民間では末次一郎さん等が一緒に手伝ってくれました。名称も奉仕でなく協力だ。青年海外協力隊が良いという事になりました。
大学を回って説明したところ「夢をもう一度ということか」といわれ、そんな気持ちではアジアは一つとはいえないと反論しました。日本が世界に貢献できるのは若者であると思ったのです。

Q:国境を越えて青年が活躍していけば、相互理解が一層深まります。世界連邦の考えとつながるものがあると思いますが。
海部会長:僕が中学生だったのは終戦直後でした。目的がなかった僕らを励ましてくれたのが東海中学の校長先生でした。林霊法という浄土宗の坊さんでした。後に知恩院の法主となられました。京都で開かれる弁論大会に出場しないかと言うのです。「平和国家建設と我ら」という題で7分間の弁論をしたら、優勝してしまいました。優勝旗を持って帰ってくると一番喜んで下さったのが林校長先生でした。翌朝全校生徒が集まる場で「海部君良くやった」と褒められました。弁論大会では何を話したのかよく覚えていませんが、平和憲法もまだ教えてもらっていなかった時代です。300万人の同胞の犠牲で体験した反省があり、スクラムを組んでノーと声を合わせるのが中学生の使命であるというような事を言いました。早稲田大学に入ってから世界連邦運動の誘いがありました。特に雄弁会会長の時子山常三郎先生(世界連邦運動協会第四代会長)が熱心でした。御自宅に伺うと世界連邦とは平和の為に必要不可欠と話されていた事を今でも忘れません。しかし、総論賛成で、米ソが仲良くなったり、そう簡単に世界が統一できるとは思いませんでした。

Q:首相在任中にベルリンの壁が崩壊する事件がありました。
海部会長 そうなんです。二つの対立がこんなに早く崩壊するとは思いませんでした。問題はそれで平和がやって来たわけではありません。米ソ対立が終われば平和がやってくると考えていまし、必ず自由主義社会が勝つと思っていました。しかし、そう簡単、単純ではありませんでした。
Q:世界連邦運動も総論賛成、各論反対が多いですね。
海部会長:そうですが、志は大きく、初めから敗北主義はいけません。小さくとも意志をもっていればやがて大きくなります(『志有竟成』)。菅直人首相は最小不幸社会を目指すのが政治だと言いましたが、それではだめです。やはり最大多数の最大幸福を求めていかなければなりません。世界連邦もそうです。
インタビュアー:伴武澄(執行理事)